洞昌院について

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縁起

洞昌院は、太田左衛門大夫持資入道道灌(法名洞昌院心圓道灌、文明18年卒)を開基として、陽室照寅が開山となり、創建したといわれています。天正19年寺領3石の御朱印状を受領、近隣に多くの末寺を擁する中本寺格の寺院でありました。太田道灌は、軍学の大家で、江戸城・川越城・岩槻城を築城したことでも有名です。

太田道灌

太田道灌(一四三二ー一四八六)は幼名を鶴千代といい、成人してからは資長または持資といった。また仏門に帰依してからは、道灌と号しました。道灌が生れた頃、父資清は相模の粕屋に本拠をおいていたので、道灌は現在の伊勢原市内で生まれたと思われます。幼い頃から非常に利発で、神童といわれていた。当時の日本は戦国時代で、各地の武将の間に戦が絶えませんでした。

道灌は二十五歳の時(一四五七)武蔵野の原に、海に臨んで城と町とを築きました。後に、この城は江戸城といい、徳川幕府三百年の居城となりました。これにより道灌は、いまでも東京の基礎を築いた人として、その名が高いです。

道灌は築城軍略の大家であるばかりでなく、詩歌を好み、風流を愛する文武兼備の人でありました。上洛の折、時の天皇の勅問に和歌をもって答えた逸話や、山吹の説話など有名な話も多いです。

晩年、道灌は京都の足利幕府と関東の公方とが、互に協力して政治を行わなければ、平和は望めないと考え、力を尽くしました。しかし、主君の上杉貞正は、己の権力の増大のみを求めていたため、道灌は怒りにふれ、志半にして粕屋の上杉館で謀殺されました。時に五十四歳でした。

道灌の墓のあるここ洞昌院は、道灌が関東管領上杉憲実の弟道悦和尚のため建てた寺と、伝えられています。